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北朝鮮内部の変革者の証言録(5・終)

北朝鮮内部の変革者の証言録(5・終)

北の証言者の紹介
 

北の証言者の年令は、南の対話者の都希侖(ドヒユン)氏(1967年生)が「北の弟」と書いているので、50歳前後である。一人優秀な息子がいる(いた)。そして彼の生き方に深く刻まれたお父さんが対話録に2回出てくる。この対話録の中で、彼は防衛上殆んど自分を語らない。しかし、その中でも時々彼は少し自分を語る。最終回として、2~3のエピソードと北が対南工作のテレビ『わが民族同士』2017年6月に紹介した彼の目元をぼかした上半身の写真を彼と判断して紹介する。彼が北当局によって逮捕された時のものと思われる。北提供の写真である。

 

〈父の教え〉

 

彼が17歳のとき、軍隊入隊2~3か月前のこと。お父さんに呼び出されて「お前は何歳まで生きられると考えているか」と問われた。そんなこと考えたことはありませんと答えると、今考えて見ろと言われ、70歳位と答えた。自信を持って言えるかと問われて、では65歳までなら自信を持って生きますと答えた。すると父は「今まで良く生きたと思ったときはないか」と言われ、「昨日死ぬ日だったが、今日も一日超過して生きていると考えるようにしなさい」と言われ、「私がなぜまだ若いお前にこんなことをいうかと言えば、人は何歳まで必ず生きるといつもそんなことを考えていると、自然に怖いことが増える。計画した日まで生きた人は多くはないので。」という話。「しかし、今寿命を超過して生きていると、大胆になれる。だからいつまでは生きなければという考えは捨てなさい」と仰ったのです(2020年『月間朝』4月号最終回)。「父は考えていたことの40%は達成できた。成功した人生であったと仰っていました。」(同上)。
「父は有名な功勲俳優であった。小さいころ母に連れられて沢山の俳優さんたちに会った。」(2019年11月号第5回目)。
〈彼の写真〉上記したように2017年6月北当局は「特大型国家テロ犯罪の真相」と題して彼と思しき人物を『わが民族同士』で紹介している。下に掲げる写真である(『月間朝鮮』2019年6月号所載)。目元はぼかしているが、顔立ちは引き締まっていて、さすが俳優の息子だなあと感じた。

 

〈南北統一した暁に、南半部を自転車旅行したい〉

 

とても印象に残る発言だ。南北が統一したら、南を自転車で隈(くま)なく旅行したい。自動車ではなく、自転車で、と(2020年3月号、第9回目)。

 

〈本当の共産主義は民主主義だ〉

 

今一つ印象に残る彼の言葉は、本当の共産主義は民主主義だと語ったこと。都希侖氏がすかさず、北は封建主義ですからねと答えた。前回の第四回目で紹介した彼らが目指した北の青写真によく合う言葉だ(同上)。

 

〈彼は化学工学を専攻。数理に強い息子〉

 

彼が終始論理的に考える人物であることに都希侖氏はいつも感心していた。都希侖氏がハッカーのことを質問したので、最終回で北におけるハッカー養成の実態を詳しく証言し、16~7歳になっている自分の息子もその一人であることを告白している。自分の命は明日まででもいいが、息子だけは生かしたいと、都希侖氏に託した。その息子も今生きているかわからない。金日成が作った連座罪法に強く憤り、悲しんだ彼であった。
終りに、都希侖氏にも深く感謝したい。北の弟との出会い、そして2年間の毎日のようなSNSによる対話、北の革命家集団が世界にアッピールしたい内容をよくぞ記録して紹介して下さった。北の弟はこの証言録で永遠に生きる。『月間朝鮮』誌にも感謝。
2020年6月9日 東京にて小川晴久識す。

 

北朝鮮内部の変革者の証言録(4)

北朝鮮内部の変革者の証言録(4)
金正恩を除去した後の北朝鮮の青写真
―金氏二代の悪の統治法の克服の後に―
『月刊朝鮮』2019年8月号と9月号から
 
都希侖(ドヒユン)氏がSNSで2014年から2年間交信した北朝鮮内の革命組織の一員最氏のグループは、2004年から活動を始めていて、金正日亡きあと、金正恩を除去した後の北朝鮮社会をどのような国にするか、その青写真を示してくれた。連載2回目の昨年8月号に紹介されている。都希侖氏は北の対話者最理想(都希侖氏の命名)氏の写真を所望したのであるが、最氏が送ってきた写真は、彼らが目指す北朝鮮社会の青写真であった。彼のセンスは抜群である。
 
〈北の革命組織が描く新しい国の青写真〉
 
最氏語る、「我々の組織は、すでに存在した反独裁諸組織とは連関はない。」「我々の組織がやろうとしていることは、簡単である。今の金正恩政権は反人民的独裁政権であることを暴露し、人民のための自由で民主主義的な政権の確立のために〇〇〇〇が発足したことを全世界に知らせるために、革命機関紙を発刊するものである。
先ず革命機関紙〇〇〇〇は、
金日成、金正日、金正恩と続いている彼らの誇張された、華麗に作り上げられた(デッチ挙げられた)歴史を、嘘で編まれた内容と真実の内容を、並行して連載して人民たちに知らせる。そうして、彼らが超人間的な能力を持った神的な存在ではなく、普通の人間に過ぎず、今日では、金氏家門はこの土地の全ての物を所有する大地主であり、大独占財閥であり、大奴隷所有者として、プロレタリア独裁の一次打倒対象であり、民主主義の仇(かたき)であるという認識を人民が持つように、大衆を啓蒙する。
将来、このような歴史が繰り返されないような憲法を持つ民主主義国家を建てようと思う。そのために人民全てが我々の偉業に賛成し参加してくれるよう訴える。また将来打ち建てられる国家が実施する諸般の民主改革の法令草案を公開する(▲身分制度の撤廃、▲旅行と居住地移動の自由、▲個人財産権の認定と市場活動の自由、▲無報酬強制労働制の撤廃と週40時間労働制、▲北と南の間の自由な移動と北と南の居住地選択の自由、▲政党創立と活動の自由、▲5年制義務軍事服務制の実行など)。
このような民主主義の国家を打ち建てるために闘争する方法を知らせる(▲革命機関紙の内容を読んでみて、家族同士、友達同士、活動家同士、互いに討論し、意見などを交わす、▲合法的な方法で、独自なやり方で意見を表示し、各種の収奪と無報酬強制労働をサボタージュすること、▲独裁体制に同調する権力階層の非理を社会的に問題視する世論を喚起すること、▲将来の新しい生活は、誰かが持ってきて与えてくれるものではなく、我々が粘り強い努力と隠密な闘争を通して実現しなければならないこと)。
 
〈金日成・金正日・金正恩の私生活資料が必要〉
 
最氏語る、「このためには、金日成、金正日、金正恩の正確な履歴と彼らの私生活資料が必要。私はインターネットで資料を集めているが、それだけでは不足。またある資料は捏造されている。正確な資料だけが、北の人民たちを納得させることが出来る。」
 
〈青写真を読んだ訳者小川の感想〉
 
訳してみて、とても分かりやすく、感銘を受けた。この革命組織が10年間掛けて、研究して作り上げた青写真だけあるなという感想である。我々自由社会で当り前のように出来ていることが、根底にある青写真であることが、この感想の根拠にある。
しかし次の9月号に北朝鮮当局(金一族の独裁体制)が如何に自国民が他国民と接触するのを禁じていたかの実例が最氏によって紹介されているのを再読してみて、この青写真の意味するところを、一層深く読み取らねばならぬことに気づいた。以下その実例を紹介し、国家保衛員の職務既定の酷さの最氏の紹介も翻訳し、金日成と金正日二代が作り上げた統治方法の残忍さを改めて確認し、上記の青写真と対比・対照させよう。
 
〈ある老兵親子の悲劇と国家保衛員の職務規定〉
 
最氏が語った実例は次のようなものである。「“私は死んでもいい。ぜひ息子だけは生かしてください!“2012年12月31日、その年も皆過ぎた最後の日に31歳の青年が吐いた言葉である。ある青年が2012年1月寒い冬にロシアの遠東地域に仕事にやってきた。彼がロシアの地にやってきたのには、ある事情があった。彼の父は6.25戦争の時、義勇軍として北朝鮮にやってきた。彼の父の故郷はソウルだ。ソウルには兄と父親、母親がいて、女の姉妹が二人いた。戦争前に姉妹たちは嫁に行き、家には両親と兄一人が住んでいた。16歳の時義勇軍に入隊した彼の父は、若い歳ではあったが、戦争でよく闘い、戦争が終わっても、復旧建設と社会主義建設で労力的偉勲を建て、いくつかの勲章とメダルを受けた戦争老兵であった。戦争によってソウルの家族と別れ、北で一人家庭を持って生活するようになった。彼の父は戦争が終われば、すぐにソウルの家族と一緒に生活しようとした。しかし彼の願いは60年がたっても実現することが出来ず、2010年分断と離別の苦痛を抱いたままこの世を去った。この世を去る前に、臨終の時、息子を呼んで座らせた父は、手紙一通を取り出して与え、次の様に遺言した。
“〇〇や。私は到頭故郷へ行けなくなったなあ。統一がいつ出来るのか。今はお前のお爺さんとお婆さんは世を去ったであろう。叔母たちの消息は分からないが、お前の叔父さんだけは、ソウルの私が住んでいた家で私を待っておられることだろう。私が義勇軍に入隊して家を出る日、お前のお婆さんが、私が戻るときまで家を移さず待っていると仰った。これが私が住んでいたソウルの住所だ。そしてこれが私がお婆さんに書いた手紙だ。私の兄はまだ生きておられると思うから、私の代わりにこの手紙を渡してくれ。世は移ったという話を聞いている。中国やロシアからも南朝鮮に自由に旅行もでき、手紙も交換でき、電話もできる社会になったという。世の人々は皆このように良く生きているのに、我々は手紙一通もやり取りする方法がない。最近ロシアに働きに行く労働者を選抜していると聞く。少しはお金を使ってでもそこに行くことはできないか。ロシアに行って、ソウルにある家に手紙を送ってくれ。そしてどうか気を付けてくれ。南朝鮮に手紙を送ったが、ばれてしまうと、全家族が滅びてしまう。私の故郷に連絡をするだけの事ではあるが、今世の中はどうなっているのか。このことが失敗したら、どんなことになるか。一歳の誕生を迎えた○○がかわいそうだな。”と言って、目を閉じることもできず南の空を見ながら,世を去った。○○とはこの父親が始めて見た息子の子であった。」
このあと老兵の息子は、父の指示通り、ロシアの伐採場に労働者として出かけ、ロシアからソウルに託された手紙を送る。しかし不幸なことにソウルの住所表示が昔のままだったため、その手紙はロシアに戻ってきてしまい、伐採労働者を管理していた保衛員の手に渡ってしまった。仰天した保衛員は、その手紙を発送した老兵の息子を検挙して、さるぐつわをし、両手両足を縛り、病人に見せかけて平壌に送り、殺してしまう。その一歳の息子も。老兵の息子は一度は脱走するが、極寒のロシアでは凍死するので、再び保衛員の秘密拘留場に戻り、保衛員に自分の父が功労者であったことや、ソウルにいる自分の兄に出そうとした手紙の事情を話すのであるが、保衛員は一片の同情も示さず、この息子親子を殺してしまうのである(訳者小川のまとめ)。
最氏はこの後保衛員の服務規定を次のように紹介する。
「▲一つ、保衛員は偽装身分を持たなければならない。我が国を除外した世界の全ての国は、敵地(仇敵の地)である。身分は副社長、副支配人、副所長、副団長とする。▲二つ、保衛員は自分が担当する単位に、逮捕した者たちを拘禁することのできる秘密監房を持っていなければならない。▲三つ、保衛員は逮捕した者を監禁し、所持品を全て押収して、逃走することができないように、衣るものは下着だけにしておかなければならない。▲四つ、祖国までの護送は、逮捕した保衛員が責任を持ち、護送途中、犯人を逃走させた場合、逃走した者と同じく取り扱われる。▲五つ、護送方法は、犯人の二つの足,膝の関節を木と石膏繃帯で固定し、二つの足を使えないようにしておき、患者に偽装して運搬しなければならず、犯人が駐在国の言葉をよく使う場合、犯人の上の歯と下の歯を針金で固定し、護送途中飛行場や汽車駅で声を出せないようにしておかなければならない。最後に護送途中、駐在国の警察やUN団体のような検束調査機関にみつからないように、注意しなければならない。」
 先の老兵の息子が保衛員に捕まり、いったん逃亡し、凍死したら一歳の息子を見捨てることになると考え、秘密監房に戻り、保衛員に特別な事情であることを訴えたが、一顧だにしてもらえなかったことは,前記した。その時の保衛員の回答を最氏は次のように記している。
「そのように功労を多く建てた親父が敵地に手紙を出す?これは祖国への反逆であり、敵地内通、スパイ罪に属する。敵地の仇敵どもと疎通することは、刑法60条に該当する祖国反逆罪であることがわからないのか!・・・お兄さん!お兄さん!敵地に住んでいたら、みんな仇敵だ。階級的な仇敵が別にいるとでもいうのか!兄というのが階級的な仇敵なのだ。その階級的仇敵と疎通しようとしたから、お前も今やこの瞬間(時刻)から階級的仇敵であり、革命の仇敵だ!」と。
そしてこの回答を最氏は以下のように解説した。「保衛員にとって、老兵の息子は、自分と自分の家族全員を殺そうと挑(いど)んでくる許すことのできない仇敵であった。保衛員や老兵の息子が住んでいる国は、互いに仇敵になり、自分がお前を殺そうとしないのなら、お前が私を殺すことになる、そのような環境であった。互いに監視し、疾視して、お前を殺せば、自分が生きる環境の中で、ひとえに、一人だけが限りなく慈愛に満ちた微笑と温かい愛、海と同じような包容力のある仁者のような度量で万民を一つの胸に抱き、本当の父の様な心情で面倒を見てくださっている。我々が抱かれて生きる世界の、二つとない、限りなく有難い我々の制度を、守って下さっている。そうして、28歳のその方(注:金正恩)は、千万軍民の尽きない尊敬と欽慕を今日も受けていらっしゃるのだ。このような世界で二つとない人権不毛の死角地帯を作り、人民たちにい抱かせているが、それでも千万人民の頭の上に座っていることのできるのは、この土地を統治するよく作った統治プログラムのお蔭だ。あらゆる幸福は私が作って与え、あらゆる悪は他人が作る、と言って互いに闘うときに、それを眺め、限りなく仁者のような笑いをしてみせることのできる環境だ。根の深い歴史を持つ、その悪の統治プログラムは、祖父の時から作られ、父の時に来て、よく仕上げられて完成し、孫にまで引き続けて、このような悪を作り出したのである。」と。
このような悪の統治プログラム(保衛員服務規則を見よ!)を作り出したのは、金日成であるのに、その上に仁者のようににこやかに座っている。これが最氏たちが描いた50年も続く金氏独裁制度の構造である。最氏は保衛員のような仕事をしていた前史がある。この後悔から、革命組織の一員になり、上記のような青写真と作り、現在の北社会の残忍な悪の統治技術を活写して、西側世界に暴露し、訴えたのである。息子をも殺す残忍な連座制に涙を流しつつ(文責、小川 晴久)。

北朝鮮内部の変革者の証言録(3)

北朝鮮内部の変革者の証言録(3)
金氏体制の最大の弱点は唯一領導体系
――あらゆる人権侵害の根源ここにあり――
『月刊朝鮮』2019年10月号より
 
最氏語る、「金氏体制の一番致命的な弱点は、自己の唯一的領導体系を建てるために、自分の命令指示に無条件服従させる秩序を建てたことである。これによって首領の命令一下に、全党、全軍、全民が一つのように動く、強い組織規則を建て、世界のどの国家指導者も示すことのできない政治勢力を示すことができると自慢しつつ、一心団結した政治体制は必勝不敗だとホラを吹いているが、実はこれが一番大きな弱点であり、北朝鮮の人権問題が発生する根源である。詳細に説明しよう。
「独裁者は言う、首領一人が国のあらゆる人を相手に一々指示を出すことが出来ないために、自分の意図と命令指示、自分の意図が体現されている党の決定指示は、必ず自分の命令指示であり、これを拒否したり、怠慢になることは、自分の命令指示に挑戦することであって、これを無条件に執行する過程が唯一的領導体系を打ち建てるものであると言った。
これによって、上では党中央の指示が道党に、道党から郡党に、郡党から里党、村の部落党、末端の党細胞に至るまで、独裁者の指示が細分化されて下りる。
 
〈唯一者の指示の具体例――芝を植えろ!〉
 
例として、金正恩が2014年10月25日真筆批准指示として平壌市、各道市郡区域、洞人民班に村の前庭に芝を植える指示を下ろしてみると、唯一的領導体系によって無条件に執行され、その過程で言葉で言い表せないほどの、多くの反人権的な諸問題が発生した。
先ず節気(注:二十四節気)的に寒さが迫ってきていて、全ての人が芝を植えるため土を掘るためにスコップとつるはしを縛って持ち、芝を植える場所に行く。家から作業場まで行かなければならず、そのため作業工具を縛ってバスか地下鉄に乗らなければならない。バスや地下鉄の入り口には検束成員(保安員=警察官)がいる。彼らの任務はさっぱりした服装で通りに出てこない人たちを検束ことである。具体的に言えば、
作業工具を縛って手に持ち地下鉄に乗ることが出来ないために、そうしようとする人を検束するのである。芝を植えろと言う方針(指示)貫徹のために、作業工具を縛って手に持っていくのだと主張すれば、作業工具を縛って手にもって地下鉄に乗ろうとする者も検束しろというのは上から出ている方針貫徹だと保安員は言う。そうであれば芝植えに行くなということかと問えば、それはあんたが受けた方針(指示)であり、私が受けた方針(指示)は検束しろという方針だけだと言って、その人たちを検束したのちに、罰金を収めさせ、また3時間乃至5時間程度拘留したという。ここで反抗すれば、実際に保安署に引っ張ってゆき、芝植えに行こうとすれば、検束成員(警察官)に0.5ドル程度の金を支払って地下鉄を利用して作業場までいかなければならない。」
 
〈労働鍛錬隊の実態〉
 
「検束員が意地悪にそのような言いがかりをつけて検束するのか?いやそうではない。十分に分かっていてそうするのだ。検束員の一ヶ月の収入は米12㎏、トウモロコシ7㎏がすべてで、お金としては0.3ドル程度である。・・・妻子を養わなければならず、仕方なく、保安員の検束権限を利用して住民たちの財布からかすめ取らねばならない。方法は唯一的領導体系を活用して、方針に引っ掛けて検束しなければならない。お金を出せば芝を植える方針貫徹だから、送ってあげると言い、差し出さないと検束せよという方針を執行するために、検束したのち保安署に引っ張っていき、各々5時間程度強制労働すれば済む。一日に検束しなければならぬ人の数は計画されている。無条件3人程度はくくっていかなければならず、検束にかける時間も、朝出勤時間で1時間に出来るだけ多く言いがかりをつけてつかまえてお金を稼ぎ、方針も決死貫徹することが出来るのである。
 住民の立場では、万一お金がなく保安署に引っ張られる場合、午前の作業に参加できない。このようなことが何度か繰り返されると、保安署監察課の呼び出しを受けるようになり、6ヶ月間の労働鍛錬隊に送るという。お金を出せばあいまいにされ、出さないと本当に引っ張られる。監察課もまたお金を稼ぐことが出来、できるだけ多くの人が無断欠勤すれば、お金も稼ぎ、労働鍛錬隊の入隊生数も整えることが出来る。これも1ヶ月に何名鍛錬隊に送らねばならぬという計画がある。
 労働鍛錬隊は、わからず罪を犯す者ではなく、わかっていても犯す者であるため、その労働強度が言葉では言えない程だ。ここは一般の強盗詐欺、暴力犯罪者たちが行く所ではなく、純粋に6ヶ月以上仕事をしても、出てこれない人を集めて置き、無報酬労働を怠慢な者たちに、より強度の高い無報酬労働と殴打、人間以下の羞恥をあたえることで、職場での無報酬労働が幸福だったなあという印象を与えることが基本目的である。このために鍛錬隊を終えて出てきた人々の言葉は、家で眠り、職場に出て仕事をし、配給をもらわなくても、どれ程幸福であるかわからなかった、鍛錬隊に行かなければわからなかったというものである。
これは単純なことで、党機関であれ、軍部の人民たちに対する収奪と行政機関、勤労団体機関、司法警察機関の様々なあらゆる収奪行為は、みな方針貫徹過程であるという形態を帯びていて、ここに反抗することは、唯一的領導体系に挑戦する事として評価されるために、このようなことが合法的に恣行によってされ、独裁者はむしろこれを自己の政治実力によって、すべての人民があらゆる権力機関の指示によく服従していると満足しているので、このような一心団結のための銃床(注:犠牲の意)政治があらゆる反人権的諸行動を発生させているのである。
〈人民たちの一心団結は反体制者を全て殺して得た結果である〉
金正日は自分の政治実力が優れていて、人民たちの支持に一心団結を実現して見せたと自慢しているが、これは自己の独裁政治を自分で自慢しているだけである。南朝鮮も北朝鮮の様に、智異山の人跡のない所に政治犯収容所を作り、済州島と巨済島を一つの収容所として作ったのちに、大統領を少しでも非難する言葉を吐けば、本人は勿論多くの人を集めておいて火をつけて殺したのちに、死んだ人の父や母をして自分の息子が死んで当然であるという演説をさせて、独裁者を非難する垂れ幕を掲げた人々を火焔放射器か機関銃で撃って殺したのちに、死んだ者と親戚間の認知もわからない者まで済州島や巨済島、智異山の中に閉じ込めて、生涯奴隷生活をさせれば、最初には意見があって、それを掲げ立ち上がっても、掲げて立ち上がるたびに殺し、また収容所に押し込め、反抗する者は全て殺し、全家族を収容所に送ることを約50年位すれば、そののちには、朴槿恵大統領を支持する人たちだけが生き残り、南朝鮮にも朴大統領決死擁護の力強い万歳の声が天地を震撼させうることであろう。
しかし、これは独裁者個人にはよいかもしれないが、そのためにどれほど多くの人が処刑されなければならず、多くの人を苦痛の中に生かす対価として実現しなければならないことに、この世界で誰もやらない政治をやりつつ、それを自慢げに感ずる所に、全ての人権問題の根源があるのである。一人の人のために全ての人を服従させる独裁秩序だけが崩れれば、貧困も零歳児、妊産婦問題も徐々に解決されるであろう。
 
〈金正恩から派生した権力は、末端の公務員まで濫用〉
 
整理してみれば、独裁権力は金正恩だけが持っているものでではないということだ。朝鮮労働党中央委員会総秘書が200という権力を持つているとすれば、、道党委員会責任秘書は20という権力を持っており、郡党委員会の責任秘書は1を持っている。その下の下部末端の公務員に至るまで細分化されて、分けて持っているのである。
金正恩の権力は自分のもので、その下の権力は金正恩が臨時に貸し与えたものである。金正恩の指示が道党に下りると、道党はそこに自分の指示を少し混ぜて下に下ろし、郡党はまた自分の指示まで少しく混ぜて末端の公務員まで伝達し、末端の公務員は自分の意図まで混ぜて金正恩の指示という命令で直接執行対象である人民に伝達する。金正恩だけが自分の権力を利用して自分の贅沢と豪華な生活をしてはいず、道党も、郡党も、末端職の公務員も、無条件で執行される唯一的領導体系を利用して自分の利益を実現する。金正恩一人の贅沢を保障することに数多くの人が飢えなければならず、道党から末端の官僚に至るまで、彼らによって奪われるまで奪われなければならない人民の生活は、これ以上いう必要はないであろう。
金正恩の指示を権力階層の官僚たちがよく執行することは、その過程で下の単位に自己の指示も決死貫徹できるからである。結局唯一的領導体系は権力階層の利益と結びついて、北の人民たちに対する搾取と収奪につながり、その過程において人権問題というものを発生するのである(文責 小川 晴久)。
 
〈訳者小川のコメント〉
今回翻訳した所は冒頭の表題に掲げた通り、北朝鮮の金氏体制の一番の弱点は、唯一的領導(指導)体系にあるという指摘であり、この主張はとても注目すべき指摘であるが、それぞれの単位の自発性の発揮が許されないという所にその弱さがあることはわかる。同時になされている、この唯一的領導体制の実現を求める過程が北朝鮮社会の人権侵害の根源であるという指摘はとても大きく鋭い指摘である。唯一的領導体系が北の独裁体制の最大の弱点という根拠は、自発性の抑圧の外にこの人権侵害の根源という指摘が、もう一つの重要な根拠であるのではと感じた。今回訳していて、韓国が北朝鮮のような体制になるにはどういう姿になることかが、智異山の中に、南海岸一帯に強制収容所を作り、最高指導者(大統領)に異を建てる者を片っ端から本人は勿論、家族、親戚、仲間を殺していけばいいという指摘は、とても強烈的であった。連座制で片っ端に殺していくのである。韓国に北朝鮮社会を実現することをこのように描くことによって、北朝鮮社会がこの五十年、少なくとも1956年以降どういうことが行われ続けてきたかをわれわれに想像させる。ここの指摘も強烈で重要である。

北朝鮮内部の変革者の証言録(2)

北朝鮮内部の変革者の証言録(2)

不平等社会の開始とその合理化の欺瞞性

今回は『月刊朝鮮』2019年12月号連載第6回目からの重点翻訳紹介です。

 

一、平等と自由(北と南の理念の違い)

 

最氏語る、「北朝鮮が自国の人々に、自国の制度が南よりよいということを、どのように教育するか。金日成時代には“北の全ての人民が皆等しくよく生活できる社会であり、南朝鮮は生産手段を所有するお金のある権勢ある者たちのための制度であるため、我々の方がよい”と説明した。その時にはそれを裏付ける社会的条件があった。先ず全ての人が地位の高下に関係なく、自分の居住地にある食糧配給所で食糧を受け取り、またあらゆる生活用品と食品などを居住地の商店などで、国家の指定する価格で買った。上は内閣と中央党の組織員から、下は炭鉱や建設作業所の労働者に至るまで、ひと月に一人の人が受ける食糧の量は同じで、月給も等しかったが、このような社会では、社会のあらゆる階層の人々が平等であるほかなかった。むしろ重労働部分の労働者の月収は、幹部階層の事務員よりも高い場合が多かった。この時は自国の制度のよさを宣伝するのは容易で、また階層別の人々に別々に嘘をつく必要もなかった。
この時には北朝鮮は“平等を味わいたければ北に来い”と宣伝し、南朝鮮は(自分の制度は平等だということはできないので)、“南は自由が保障される社会で、誰も熱心に努力し、また能力と才能を発揮すれば金持ちになることが出来るから、自由を享受したいなら南に来なさい”と宣伝した。南朝鮮のこの宣伝は50年前であれ、今であれ、一貫して同じ言葉を反復しているのに比して、北朝鮮は時代に連れて宣伝も変わってきている。
ここでは互いに自分のものがよいという骨子が、一つは平等がよいというものであり、一つは自由があるからよいというものだ。北朝鮮は、人は全ての人の能力と才能や、熱心に仕事をしようとする勤労精神が、互いに異なるために、自由を与えれば少しずつ人々の能力の差異によって、貧富の格差が生じるために、この不平等をなくそうとすれば、国家権力の力で平等にしなければならぬと主張し、即ちプロレタリア独裁が存在しなければならず、そのために平等であろうとすれば、自由であるわけにはいかないと主張した。繰り返せば、自由であろうとすれば不平等になるという宣伝だ。」

 

二、不平等社会の開始――金正日時代から――

 

「変化の始まりは、金正日が“蒼光通り”という中央党勤務員だけが別に集まって住むアパート団地を建設することで始まった。勿論ここには見せかけとして一、二棟のアパートは体育人だけに与えられたが、大部分は中央党アパートであった。党中央の人間だけを集めて、食糧供給所も別途に作り、副食物の供給も特別に生産を始めた。これを手本として、省中央機関、武力部の本庁舎成員たちと、特殊機関成員たち、彼ら全部の住宅団地を各々別に建て、食糧および物資供給所を別々に持って、自分たちだけ特によく食べ、よく生活できることを始めた。結局不平等の社会になってしまったのである。
元々、北朝鮮は大部分山林であり、田んぼは余りなく、全ての北の住民は白米を食べるのが難しい。山が多いから、畜産業をすれば、肉は食べることが出来るであろうが・・・。よく食べるとしても、5対5の雑穀飯で、平等の時代の時は、全て北の住民たちは地位の高下に区別なく、雑穀を食べた。しかし、今は白米を食べる階層とトウモロコシ飯を食べなければならぬ階層が区別される社会となった。
平等のために存在した、搾取制度の芽が育たないように制圧するために存在したプロレタリアの独裁も、今は権力階層の利益を守り、勤労人民大衆を抑圧する不正義の武器として自己の階級的な性格が変わったと見ることが出来る。
ここまで来ると、北半部の人民たちが、平等の代わりに自由を選択して、南の側に心が傾くようになる筈なのに、なぜ未(いま)だに自分たちの利益よりは、いくらもない特権階層だけのための体制を守るのか、自分たちが守る体制が自分たちの飢えと無権利搾取だけを持続させるのに、なぜ自分たちの苦痛の時代を継続持続しようとするのかという疑問点が湧いてくる。それは北朝鮮の宣伝当局がこのような社会を支持して従うように、北の住民たちを「教養」(注:洗脳)するためである。以下、北朝鮮の宣伝当局が各階層別の人々に何をいっているのかを取り上げてみる。」 その前提として差別のできてしまった今の北朝鮮の階層を4つに分けてみる必要がある。

 

三、4つの階層分類

 

「金日成の時代には、我が国が全ての人が平等に生活するだけでなく、世界で一番よく生活できる国であると宣伝した。外部情報が遮断された北朝鮮の人民は、比較することが出来ない状況で、その言葉をそのまま信じた。
ところで金正日の時代に入るや、1995年以降北朝鮮では苦難の行軍ということが始まり、多くの餓死者が発生したので、もはやこの世界で一番いい国、平等な社会だと教えることが難しくなったと判断した北朝鮮の党宣伝部は、北朝鮮の住民たちを一定の部類に分けて、正直に語らなければならない階層には正直に打ち明け、またうまく言いくるめて切り抜けなければならない階層には、嘘の約束をする式に、全体として今の体制に従うように、教養事業と宣伝事業の戦術を変えた。
北朝鮮の住民階層は、大きく4つの階層に分類することができる。
〈第一部類〉 金氏王族家門と最高位の官僚たち
中央党の秘書、部長、副部長以上の級(クラス)。内閣の総理、副総理、省の党秘書以上の級、各級の指導局長、指導局責任秘書。軍隊と特殊機関の中将以上の級の将領たち。各道・市・郡の党委員会の責任秘書、組織秘書、宣伝秘書以上の級。
〈第二部類〉 中間の高位官僚たち
内閣の部長・副相、中央党の課長以上の級。二級企業所以上の支配人、党秘書。軍隊と特殊機関の大佐(大領)以上の級。各道・市・郡党委員会の部長、副部長以上の級。
〈第三部類〉 末端の公務員、党機関の一般指導員、軍隊特殊機関の軍官、高級科学者・教育者
国家機関の一般公務員、党機関の一般指導員、軍隊と特殊機関の中佐(中領)以下の軍官、国家機関の科学者、大学以上の教育機関に勤務する教育者。
〈第四部類〉 それ以外の全ての人々。闇市場で生活する人々

 

四、第二部類の階層(主に党の組織員たち)に対する教育

 

「宣伝事業の基本は、何の自由も、大義名分として打ち出した平等もない国家の体制を、どう言えば自分たちが生きていかねばならぬ生活の拠り所として教えられるかにある。不平等と独裁だけが残る条件下では、第四部類階層には貧困と餓死をもたらしたが、第一、第二部類の階層には、豪華さと富、贅沢と特権をもたらしたので、この二つの階層は金日成時代よりは金正日時代の方がよりよく、教養作業や説得は必要ない。ここでも基本は第一部類の高位特権階層にあって彼らの責務は、第二部類の階層に対して、現在の金正日独裁政治が人民たちには少し苦痛ではあるだろうが、特権層が生きるには金日成時代よりはいいのではないかという式に、正直に語るのである。次のような事例がある。1997年中央党で武力機関と社会の党組織員たち、政治組織員たちの講習を組織した場で、中央党扇動宣伝部の課長が次のように語ったという。実際にあったことである。
“ここには全て党組織員たちだけが集まっている。あなたたちに一つ質問がある。我々が社会主義制度を守ることが出来ず、我々の体制が転覆したとしよう。南朝鮮のような資本主義になったとしよう。そうなったら同志たちのような党の活動家は皆職業を失うことになるので、そうなったらどんな職業を持つことができると考えるか。「私は党の組織員でなくても別な職業で自信をもって生きていける」という人は、手を挙げてください。また、「我々の単位で党の秘書は私でなく別な人はできない」と考える人がいたら、挙手してください。また「党の秘書を解任され、別の技師や設計者、教員を命じられても、自信をもってやっていける」という人は手を挙げてください。苦難の行軍時に党の秘書が餓死したのを見た人がいたら、挙手してください。「乗用車がなくても私は毎日歩いて通います」という人がいたら、挙手してください。「私は党の秘書であるが、家がなくても他人の家で同居生活します」という人がいたら、手を挙げてください。
御覧なさい。一人もいません。党の秘書や政治組織員は科学者とか技術者、研究員、大学の教員の様に特別な能力や実力があってすることではなく、皆さんは皆秘書を止めれば、直ちに食べて生きる対策もなくなった失業者となってしまう。
我々が万一社会主義を守ることが出来ず、我々の体制が転覆や改革開放の道に進み、南朝鮮のような資本主義社会が到来としたら、先ず一番に飢えて死ぬ対象はあなたたちです。“
このように第一部類に属する高位特権階層は、第二部類に属する特権階層に、万一南朝鮮の自由民主主義の体制による朝鮮半島の統一という環境が到来したら、自分たちの特権的地位を享受できる環境がなくなり、また第三部類や最下層の第四部類に属する人たちの心は改革と開放、変化の側に傾きやすいから阻止しなければならない、苦難の行軍という苦難は第三部類や第四部類に該当する人民に限られることであって、自分たちに該当しないものだと、正直に打ち明けることで、独裁と不平等だけが残る北朝鮮の体制を変わりなく受け入れるよう教育するのである。」

 

五、第三部類の階層(統制階層)に対する教育

 

「第三部類階層の基本構成員は、主に軍人と司法警察、保衛・保安に従事する下級軍官たちや下級公務員たちである。彼らには特権的な地位は保障されていないが、食糧供給といろいろな生活保障の恵沢がまかなわれており、またうまくやれば、第一部類の階層には属することはできないが、第二部類の階層には昇ることの出来る希望のある対象者とみればよい。
彼らには国の現実には関わらず、社会主義の守護者であり、運命であられる将軍様を死をかけて擁護しなければならぬと宣伝する。なぜなら、万一南朝鮮の自由民主主義による統一が到来すれば、主として政権維持に従事してきた第三部類の階層は、清算されるか、処刑されるために、自分の命を守るためにも独裁体制を守るのである。第一部類と第二部類は、主に独裁体制に変わった北朝鮮の社会主義で指導階層に属すれば、第三部類は、北朝鮮の社会主義体制で統制の機能を遂行する統制階層に属するためである。
事実この第三部類階層は、北朝鮮が南朝鮮の自由民主主義によって統一される場合、第一部類、第二部類とはちがって、自分の境遇が不利になるばかりではなく、不利になることもあり、有利になることもある。そのために北朝鮮の独裁者も、第三部類階層に対する教養(教育)事業に大変神経を使っていて、万一彼らが動揺すれば、必ず全体的な波動の始発点になるので、そうなのだ。」

 

六、第四部類階層への教養(教育)事業―米軍による皆殺しを主張―

 

「最後に北朝鮮の最下層に属する第四部類の階層への教養事業である。彼らの境遇は南朝鮮による統一によって改善される。彼らは国家から何の恵沢も受けていないばかりでなく、彼らの生産活動の創造物は彼らの取り分とはならず、第一から第三部類の生活を保障するのに全部回されるために、極端な貧困に苦しんでいる。彼らは統制と制限の中で、無報酬労働以外に追加として進めている市場活動で辛うじて生きているため、市場活動の自由と労働に対する報酬が法的に保障されている自由民主主義の体制こそ彼らが今の北朝鮮の状況で望み望んでいる環境である。
そのため彼らに対する教養事業は第一、第二、第三部類に対するのと違わなければならない。考え出したことは、南朝鮮による統一が実現したら、彼らは皆無残にも殺されると宣伝することである。ここに彼らを納得させるだけのそのような論拠がある。
6.25戦争当時、米国は北朝鮮地域で無差別な砲撃を浴びせ、多くの民間人を殺害した。米国の民間地域に対する砲撃は、相手側の戦争遂行能力をなくす目的を越え、北朝鮮の人々を一人でも多く殺そうとする意図として理解することのできる程の攻撃であった。万一米軍が今のような精密砲撃能力を6.25戦争当時も持っていたら、たぶん北の住民たちは大部分消滅したであろう。」

〈都希侖氏のコメント〉
「北の弟(北の内部の証言者、最氏のこと)と北朝鮮の変化に対する対話をする時一番困惑し、熾烈に論争まで進んだのは、この部分であった。事実あらゆる目標と方向、未来に対するビジョンなど大部分が一致した意見を持ちながら、唯一つ米国に対する反感だけは、これほどの認識の差異が存在するのか、知ることが出来た。」
最氏語る、「今国連の舞台で米国が北朝鮮の政権の人権蹂躙行為に対して騒いでも、北朝鮮の人々は別に反応しない理由がここにある。
言うならば、米国が言う言葉は間違っているところはないが、米国の口が騒ぎ立てる声は聴くのは嫌だということである。米国は北朝鮮住民を全て殺そうと考えた国であるが、北朝鮮の独裁政治は収容所を運営しても北朝鮮の人全てを収容所に送ることはなく、全ての人を飢えで殺すこともしない。だから別な国が北朝鮮の政権の収容所の実態や餓死に対して語れば共感し、我々の境遇に同情して助けてくれるのだなあと言って共感することが出来るが、米国は北朝鮮の餓死や収容所に対して物を言う資格があるかどうかということだ。
一言で、北朝鮮の住民たちの反米感情は、北朝鮮の宣伝に依らなくても大変高い。ここに北朝鮮が宣伝に依って少しでもそれを煽ると、その効果はより大きくなる。
ところで、その自由民主主義が米国と一緒に立っていることだ。6.25戦争当時北朝鮮地域に南朝鮮の国軍と米軍が北上して、そこにいた時間は50日程度であるが、国軍による北の民間人虐殺は記録されたものがなく、北朝鮮の宣伝当局もない事実を作り出すことはできない。
南朝鮮の自由民主義による統一時に、南朝鮮が米軍と軍事的に同盟関係にあることで、北の地域に米軍が入ってくるだろうし、そうなると、北の住民を一名でも生かしておかないと(北朝鮮当局が)宣伝することによって、北朝鮮の社会主義は好きでも嫌いでも守らねば、そうでないと無残にも死を迎えることになると、第四部類の階層の人々を教養している。
我々がこの場で駐韓米軍の問題に対して語ったとしても、米軍が朝鮮半島から撤収することはないが、北朝鮮の独裁体制が政権を維持するのに、米国が大きく助けていることになる。また大韓民国は北朝鮮人民の憎悪の対象である米国との軍事的共助のために、自由民主主義のイメージが大きく損傷されているのである。
金正日時代に入っては、この感情をよく活用して、今まで不平等と独裁だけが残っている自分の国の体制を維持して、自由が保障されたという南朝鮮に傾くことのできる民心を自分がわしづかみにして自分の独裁体制を今まで守ってきたのである。
南朝鮮が米国の軍事力に依存せず、単独で北の軍事力を制圧した状態で北の住民に自由民主主義をよく納得させることが出来たなら、統一の日が早く来るのではないかという考えが湧くのは事実である。そうではなく、住民たちの感情を無視して米国との軍事的共助で朝鮮半島の平和を維持した状態で自由民主主義の統一を実現しようと試図したら、北朝鮮のあらゆる階層の住民たちはたぶん継続して金氏王朝に従うだろう。私の見解は以上である。」

〈以上を翻訳紹介した小川の感想〉
以上の最氏の指摘の中で私が一番教えられたことは、金日成は1994年7月に亡くなって、金正日の時代になるや、1995年から北は苦難の行軍の時代に入るが、その時に北朝鮮は不平等な社会に入ったという指摘である。その具体的な指摘が強烈であった。平壌の銀座通りまたは鍾路とも呼ばれる蒼光(チャングアン)通りに党中央の職員たちの団地が作られていき、それが手本となって各省庁の職員たちの団地がその周りに作られていったという指摘である。北朝鮮のなかで平壌は特別な都市で、地方の住民は平壌に自由に行くことが出来ないことは、よく聞かされていたが、平壌と地方の不平等の格差が蒼光通りから始まったことを今回初めて教えられた。つぎに北朝鮮は差別・格差社会であることは「51成分分類」によることは、痛ましい現実として認識していたが、最氏は住民階層を4分類することを、この証言で教えてくれた。この4分類はとても分かりやすい。特に第三部類階層が統制階層と説明されていることに注目しよう。軍人、国家保衛省の保衛官や人民保安省の警察官たち、即ち金氏一族の独裁体制を支えている統制活動をしている階層が第三部類である。高級科学者や教育者もここに属すると言うが。第四部類階層が人口の60%を占める民衆で、この階層は政府から何の恩恵も受けていない階層であるという指摘。成分分類と共に、この4分類を今後よく生かしていこう。今一つ、都希侖氏も納得できないとコメントしていたが、朝鮮戦争の時アメリカ軍が北朝鮮の人たちを一人もこらず殺そうとしたという最氏の米軍理解には、私も違和感を覚えた。ただ米軍の空爆した回数(80万回)、落とした爆弾の総重量(60万トン)、また一般市民の死者北朝鮮は250万(韓国は133万)をネットで知ると、最氏の指摘もうなずけるように今はなっている(本稿、文責小川 晴久、2020年6月19日末尾追記)。

北朝鮮内部の変革者の証言録(1)

北朝鮮内部の変革者の証言録
――月刊『朝鮮』2019年7月号~2020年4月号10回 連載より重点的に紹介(今回第一回目)—―

小川晴久

韓国の人権活動家都希侖(ドヒユン)氏が2014年から2年間北の内部で金一族の体制を転覆しようと努力しているある勢力の一員とSNSで対話した内容の報告が10回にわたって連載された。私がこの連載を知ったのは約10日位前で、当会の宋允復氏が今月2月号所載の北の政治犯収容所に関する証言を世話人メールに紹介して下さったのを介してであった。ネットの検索で都希侖と入れればこの連載をハングルで全て見ることが出来る。ダウンロードして全部読んでみた。とても重要な内容が多かったので、本会報に5回位に分けて重点翻訳してみたい。今回は北の政治犯収容所に関する部分である。原載では『死生決断対話録』。対話者の2人のごく簡単な紹介を始めにする(文責小川)。
〈都希侖氏について〉1967年生。延世大学大学院社会福祉学修士。学生運動で2年投獄。興士団勤務後、北朝鮮脱北者救援活動に従事。被拉脱北人権連帯代表。
〈仮名、最理想、金成日〉北朝鮮内部の体制変革者。エリート階層の一員。化学工学に詳しく、保衛司令部の一員。ハバロスクで派遣伐採労働者を管理しながら、都氏とSNSで交信し、2016年頃本国に戻り、以後連絡不通。生死不明。

 

北朝鮮政治犯収容所は金日成が作った
1956年8月宗派事件から。物凄い広い連座罪制を伴って。

 

最氏が語る。「国連が想定している政治犯収容所は、農場管理所と管理所を言う。先ずどんな国にもある一般犯罪者を収容する労働教化所があり、保安部(警察)が管理する労働鍛錬隊(南朝鮮の三清教育隊と同じもの――訳者注、全斗煥時代のもの)がある。そして全ての家族と共に入っていなければならない労働管理所(訳者注:革命化区域)があり、本人だけ入れられる管理所(訳者注:完全統制区域)がある。

正常な社会の矯正施設は大部分拘置所と教導所であるが、北朝鮮のような共産体制は、一般的な矯正施設の外に、特に政治犯のような場合、北朝鮮では民主人士たちが該当するが、彼らは全て正式な裁判など経ないで、国際社会が言う政治犯収容所、北朝鮮式の名称としては「管理所」に収容され、永遠に社会とは断絶されたまま、生きていかなければならない。」
「政治犯収容所問題は、我々の組織(訳者注:内部の反体制組織)でも深く研究する対象であるため、収容所撤廃問題も実情(実相)を国連やあなた達はよく知らなければならない。」
「政治犯収容所の公式名称は、“国家安全保衛部農場管理所”である。初めて出来たのは、1956年8月党中央委員会政治局全員会議で、当時の北朝鮮の党と政府の過半数の閣僚が、金日成に集中した権力を民主主義共和国の性格に合うように、独断的に集中処理するものではなく、民主主義的に全ての内閣の成員の意見を収斂して、全体的討議を経て、過半数が賛成すれば、可決して執行する体制を打ち立てようと会議の案件として提出したが、その時生じたものである。
会議の案件は、人民経済の遂行と関連した問題を討議するようになっていたが、この会議を通して金日成の独裁を阻止させる体制を打ち立てることに対する決定を採択しようとすでに約束した過半数の閣僚が、会議の案件とは別の問題を持ち出してきて討論を止めるや、会議を休憩にして、こっそりと会議場を抜け出した金日成が軍隊を動員して案件の提起者と案件を支持する閣僚全てを逮捕して起きた事件が8月全員会議宗派事件であった。」

〈都希侖氏の補足(8月宗派事件に対する)〉

「戦後(朝鮮戦争後)の復旧建設資金を調達するため、金日成がソ連と東欧国家巡訪の途に出向くや(6月1日~7月19日)、その間隙に乗じて反金日成勢力が結集し始めた。当時ソ連大使イワノフがその背後にいたこともよく知られていた事だ。慌てた金日成が早期に帰国して、8月2日に予定されていた中央委員会総会を8月30日に延期して事前に対処し、1956年8月30日に平壌芸術劇場で朝鮮労働党中央委員会全員会議が開かれた。商業相尹公欽が討論者として現われ、突然金日成指導部を攻撃した。その内容は余りにも当然な失政に対する批判であったにも拘わらず、彼らは全て党職を剥奪され、“反党宗派分子”として追い込まれた。大部分の中央委員が金日成を擁護したためである。尹公欽、徐輝などは党から追われ、延安独立同盟系列の指導者崔昌益とソ連系列の内閣副首相朴昌玉などは党職を剥奪された。こうなったので、尹公欽などは徐輝、李弼奎と共に中国に亡命した。
しかし状況は金日成にも侮れなかった。中国の国防部長彭徳懐が平壌にやってきて、反対派の頼みを聞き入れ、反対派を後ろから煽ったソ連側も、副首相ミコヤンを送り、彼らを助けた。金日成は一歩下がって彼らの地位を回復するしかなかった。しかし二人が本国へ帰ったあと、金日成は反対派の粛清を本格的に始めた。粛清作業は1958年3月まで進行した。」

〈連座罪の家族・親戚の範囲〉 恐怖の広い範囲

最氏語る。「この時逮捕した閣僚中、ソ連と北朝鮮の二重国籍を持つ者たちはソ連に追放し、残りは処刑するか監禁した。この時連座罪法を作ったが、逮捕した閣僚たちの関連部署で彼らと連携していたという人たちと彼らの家族、親戚まで全て逮捕した。

逮捕された人の中には、全員会議に参加するクラスでない、傘下部署の官僚たちとそれと連関した家族、親戚などが、絶対多数であった。彼らは理由もわからず逮捕された状況であった。ここで問題となるのは、最初に逮捕する時は、会議の参加者だけに該当したが、のちに金日成の指示で、本人たちの家族、親戚と、連関したと認識される人々、そして又彼らの家族、親戚まで、全て逮捕したのである。
その時当時彼の指示を実行した内務省が、“家族、親戚とは、どこからどこまでかと問い、彼らを監禁すれば、その数は大変な数になるので、どこに収容するか、またかれらの刑量はどこまで適用するのか”と具体的な指示をしてくれるように金日成に要求した。この時金日成が考えて語ったことが、永遠に変更することなく北朝鮮の収容所管理規定になったのである。金日成の指示は北朝鮮の内部機密文書に記録されている。当時住民登録体系が立っていない北朝鮮の内務省(警察)としては、親戚関係を規定することが出来なかった。当時は保衛部がなく、内務省の中に政治保衛部署があっただけであった。
金日成は、家族は本人と父母、兄弟である場合、息子であれ娘であれ、家庭を成し、分かれて住んでいても該当し、親戚としては父方として8親等までの全ての兄弟、叔父と甥(姪)とその妻まで、母方としては4親等とその妻まで、未婚の4親等の姉と妹まで、妻方としては義父、義母、義兄、義弟、また彼らの妻、未婚の義妹まで属し、父の姉妹(おば)方としては、おば4親等、未婚のおば4親等の妹まで、おば4親等の妻まで、母の姉妹とその夫、母の姉妹4親等の兄弟とその妻まで、未婚の母の姉妹4親等の姉妹までが、親戚となり、その範囲を大きく捉えた。
「我々朝鮮民族の場合、このように親戚関係を捉えると、互いに顔も知らない人が半分を越え、親戚たちを通して名前をきいたことがある親戚は30%以上となる。だからほとんど大多数がわけがわからないあいまいな人たちから成る。
またここで父方は余りに広く捉え、母方は相対的に狭く捉えているが、これは金日成自身が成長過程で母方の親戚たちとの往来が別になく成長した環境とも関連がある。
このような規定で逮捕すれば、本人一人当たり、私生児を除いて100名から150名程度となる人員として、それを執行する保衛部の高位層官吏から下級公務員に至るまで、ゾッとする範囲である。
このような規定は余程金日成に忠実でも、いつ、どこで、どのように関わりあうか誰もわからない範囲であり、一部類階層(訳者注:最高位の官僚たち)から四部類階層(注:60%の庶民、闇市で生活する人々)に至るまで、恐怖に陥れる範囲として、万一このような連座罪法が撤廃されたら、金正恩を除いたすべての人が万歳を叫ぶ恐怖の範囲である。
実際1997年黄長燁が韓国に亡命したとき、北朝鮮がその家族、親戚150余名を処刑したと私の口で発表した。」

〈 刑量、監禁する場所〉

「刑量はどの程度適用すべきか、指示事項によれば、“反革命犯罪者は永遠に教化できない”という指示を下し、彼ら全てを終身懲役者と規定した。次に“彼らを、今ある教化所(注:刑務所)ではなく、深い山の中に外から隔離された区域を作り、そこから永遠に出られないようにし、その存在は北朝鮮の人々にも知らせないようにし、その中では結婚による人口増加を徹底して阻む。こうすれば彼ら全ては歳を取って死亡して、将来その農場をなくせ”と指示した。そして彼らには“最小限度の食糧と衣服を供給し、その子女に対する教育も字(文)がわかる程度に止め、農場運営で上がる生産物は内務省で消費せよ”と管理運営に関する具体的な指示を下達した。
「収容所の撤廃は、金氏王朝が崩れれば、自然になくなるものではあるが、金氏王朝が存在する状況で収容所撤廃運動を展開しようとすれば、その実行者たちの思想動向状態と利害関係をよく把握することに根差して戦略と戦術を立てれば、成果を収めることが出来ると思う。だから長文の説明ではあるが、よく聞き届けてくださることを願う。」

〈金日成がこのような収容所を作った理由〉

我々の組織は、金日成がなぜこのように残酷に政治的反対勢力と関係者たちの範囲を広く捉え、彼らの肉体を抹殺し、彼らの精神状態が外部と接触できないように遮断する閉ざされた区域を作ったのかに対する討論を多くした。

7歳で獄中の父を見舞った経験から

「それは金日成の政治的思想状態の成長過程と関連する。金日成の父金亨稷は民族
主義者として反日独立運動を示した思想運動家である。彼の精神状態が成長した時期は、李氏王朝の最後の時期で、国権回復後国の統治方式は封建的君主制であった。
金亨稷が植民地反体制思想運動として逮捕された時、金日成が平壌監獄で監獄生活をする父を始めて見たのが7歳と時である1919年であった。金日成は父を見ながら、彼を監禁した日帝に対する反抗意識が大きく生長し、また自分はここで経験と教訓を得て、新しく果敢な反日闘争をしなければという決心を持ったと回顧録に明らかにした。
結局“父を逮捕するとか処刑する時、息子を生かしておくと、自分の経験から見て、反抗意識がより大きく生長するため、全て殺してなくせば、思想が消滅する”という金日成の“思想消滅論”によって、このような連座罪処罰方式を適用したのである。」
「彼は“あらゆる人は自分の政治的見解は持つことはなく、ひとえに一人の思想と指導に絶対的に従わねばならず、それを拒否することに対する処刑は罪となるものではない”という世界観的思考をする人物であった。そのため彼は別な人たちに政策樹立に対する意見や賛否を問おうとはしなかった。
別の人々が金日成の統治観を理解できないのは、彼が自分の心中の思いをうまく隠すすべを知る性格を所有していたためである。もし全員会議の参加者たちが、彼のこのような措置を取ることを事前に考えたら、別の戦術を使ったであろう。

〈1970年代に入り収容者は増加〉

1970年代に入って、唯一思想体系を打ち建てる過程で、唯一思想体系に早く適用できず、自分の意見を語った多くの人物とその家族、親戚、そして6.25戦争当時敵の機関や治安隊に加担し、殺人蛮行を犯した者たち、南朝鮮出身者として思想状態がハッキリしないと思われた者たち、国軍捕虜の内思想あいまいな者たち、人民軍捕虜帰還兵の中で同様の者たち、8.15光復以前に、国内国外で活動した政治的敵手たちを始めとして、多くの人々が収容所に監禁され、収容所の数も増えた。
こうして金日成が最初に指示した収容所人員の老化による収容所範囲の縮小および廃止は執行されず、むしろ増加した。その実体に対する秘密保障も、国内の住民たちは勿論、国際社会にまで知られるようになった。

〈収容所の位置、人員数、その中の実態〉
収容所の位置や収容所の収容人員、収容所内の具体的な人権状況に対する詳細な材料を列挙することはできない。そのような材料は我々組織の関心外のものであり、その材料を知ってもいない。収容所の人権状況は、すでに外に出ている陳述で十分であり、関係者でもそれ以上のことを知ることもできない。収容所の収容人員に対する統計は極秘事項で、何人かの関係者以外には誰も知らないであろう。」

 

〈収容所の第二次犠牲者は保衛部であった〉
――特に深化組事件(1996~2000)を通して――

 

「深化組事件というのが金正日統治時期に入ったら起きていて、この事件を当時社会安全省(現人民保安省)が進めたが、この時逮捕した関連者たちとその家族、親戚たちを収容しようと、国家安全保衛部とは別途に安全省が自分たちの農場管理所を作った。」
「深化組事件とは、金正日統治に入って、多くの餓死者が発生するや、経済破綻の責任を金日成時代に登用された老幹部たちにかぶせ、西北青年会が北播(北に派遣)されたスパイであるとして、すべて金正日の指示によってデッチあげられた事件である。
元来その事件のデッチあげは、国家保衛部がしなければならなかったが、事件をデッチあげろという金正日の指示を保衛部の上層部の幹部たちが無言の抗弁で拒否して、やむなく安全省が進めるようになった。」
「金正日時代の時から、収容所の二次被害者は保衛部であった。初代部長であった金炳夏を据えて、金日成は唯一的指導体制を打ち建てるために、言葉と行動を(金日成に)忠誠にしない多くの4部類に属する人民たちと、1,2,3部類の幹部たちを大量に逮捕し、収容所に送ることによって、じぶんに忠誠を尽くさないと生き残れないという恐怖心を与え、思想の一色化の唯一領導体制を打ち建てた。
しかし余りに多くの人が一言の発言ミスで捕まり、人民の中で不満が起きてくる兆しが現れるや、その執行者である国家政治保衛部部長金炳夏を反党反革命分子として処刑し、保衛部相手に大々的な粛清を断行し、人民たちの不満を全て保衛部へ移し被せた。金日成は自分は全く知らずにいて、金炳夏が首領も知らず、多くの人々を収容所に送ったというものであった。
この時逮捕された保衛部の幹部のうち国家政治保衛部内の将領(所長)1名だけが生き残り、みな処刑された事実は、大量の逮捕がある毎(たび)に、保衛部もそれに劣らない被害を受けたことを物語っている。」
「このような豊富な経験を持つ保衛部の上層部は、1998年国家保衛部を秘密裏に訪問した金正日が4代(ママ)の保衛部長金ヨンリョン(栄龍?)の階級を上将から大将に昇格させて、深化組事件を推進せよと指示を出したが、わかりましたと応答しつつ、無言の抗弁によって、その進行を進めなかった。最後の結果に対する対応が分かり切っているためであった。
怒った金正日は当時中央社労青委員長の崔龍海の賄賂と浮華(セックススキャンダル)を自分に報告しなかったという口実で彼(注:金ヨンリョン)を反党反革命分子として粛清(事務室で服毒自殺)、保衛部内の殆んど全ての将領を安企部(注:韓国の安全企画部)と結託したスパイ集団として追い込み、保衛司令部によって逮捕、取り扱いさせた。このような状況でその事件の捏造(デッチあげ)を安全省(警察)がするようになったのである。」

〈都希侖氏のコメント〉

「北韓の弟(注:最氏=金成日)は国際社会の一般的常識を越える発言をしている。“金氏王朝の維持に一番貢献してきた保衛部が、金氏王朝に対する反感が一番高い”という発言だ。」

〈訳者小川のコメント〉

深化組に対する私の認識は全く不正確で、貧弱であった。ネットのウキペディア辞典の説明を今回参照してみた。相当詳しい説明であった。それも参照しつつ、今回の深化組に関する最氏の証言を読まれたい。ウキペディア辞典の説明によれば、深化組とは社会安全省内部に作られた秘密警察組織で「住民の経歴・思想調査を深く行う組織の意」。当時組織指導部第一副部長であった張成沢を責任者にして実行させた。実際の実行役はやはり組織指導部副部長で社会安全部政治部長であった蔡文徳。深化組の拠点を全国に数百か所に置き、捜査員8千人。1996年から1998年の第一段階と1998年から2000年までの第2段階と二つに分かれる。最氏の証言で一番重要なのは、1990年代後半に大量の餓死者が出た責任を金正日は農業部門の責任者を始め、古参幹部たちに押し付けるため、対象をそういう所にし、第2段階の1998年からは上記のように国家保衛部にそれをやらせようとしたが応じなかったので、国家保衛部の幹部たちも粛清の対象にしたとおもわれる。第1、第2段階合わせ、総勢2万5千人粛清、うち1万人処刑、1万5千人収容所送り(以上ウキペディア辞典)。深化組事件理解で重要なことは、金正日が苦難の行軍と称された1990年代の後半の300万の餓死者を出した責任を自分の核開発等に帰せず、金王朝を支えてきた古参幹部を始めとする幹部たちに責任をかぶせた大粛清であったことである。時期が重要である。1996年から2000年にかけて行なわれた。収容所=政治犯収容所(強制収容所)の第二の被害者は国家保衛部の職員であるという最氏の指摘である。脱北し、キリスト教会関係者に助けられ、また国内の送還されたひとたちも収容所送りされ、国内の反体制者たちも依然として収容所送りされているが、今や権力層までも収容所送りされているという事実を、最氏は指摘している。それが深化組事件という粛清が持つ意味である。最氏が教えてくれた二点(金日成の連座罰法の酷さと二代目金正日の深化組による大粛清の酷さ)をしっかりと踏まえたい。

 

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